欺瞞飛行

giman hikou ――本やゲーム、その他よくわからないブログ

別に台本があったっていいんじゃない?

台本があるから出演者の言葉はウソ、と言えるか

日テレ4月8日放送「耳が痛いテレビ」で、いとうあさこさんと長島一茂さんが、一般の人の「芸人は下品だ」というクレームに対して言った反論がすごいとかヤラセだとか何とか騒いでいる件について。
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話の内容は置いておいて、「芸人でも素人でもアドリブであんなことをしゃべれるわけがない→台本があるに違いない→ヤラセだ→全部ウソだ」と言ってる人とかが結構いるのが気になった。

確かに台本があってもおかしくないやりとりであるが、「アドリブではなく台本あり」=「おばさんや芸人の意見はテレビが作ったウソ」とはならないはずである。

「ヤラセ」っていうのは使う人や場面によって意味のブレが大きいフワフワした言葉なのだが、今回はとりあえず「台本がある(話す内容が事前に決まっている)」ということを「ヤラセ」と定義する。

で、今回のテレビの件を簡単に場合分けするとこうなる。

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どこまで許せる?

もしAだったら、誰も文句はないはずである(話の内容の是非ではなく、やりとりが本物かどうかに関して、と念押し)。

B、Cは、制作側が事前におばさんから質問を聞いて芸人側に投げ、回答を得てまとめ、台本に書いておく、という作り方であろう。
Dは勝手に制作が用意したのをしゃべらせるだけ。

B、C、Dの場合は、上の定義からすればヤラセだろう。
そして、「台本があるにちがいない! 嘘だ」と言ってる人はAじゃないからダメだと言ってることになる。

でもこれ、どこまで許せるかは人それぞれだろう。私は、
Bなら「本人の意見を本人の口で言ってる」わけなので、別にいいんじゃない?むしろかなり真摯に作っているのでは、と思う。
Dは許せない。
Cは結局のところ程度問題なので、たとえば5割くらいその人の意見が入ってそうなら、まあちょっと考えてみてもいいかな。
という感じである。

どれが正解かは視聴者にはわからないので、推測するしかないのだけど、今回の場合はBかCじゃないかなと思う(最初からシナリオ全部捏造するのはかなり大変だし出演者の反感買うしでDの可能性は低いのでは)ので、「台本ぽいから」でウソときめつけて全部シャットアウトしてしまう人を見るともやっとするのである。

というか、ドキュメンタリー番組やノンフィクションの書籍でもなんでも、少なくとも作る人の意図や手が入らないメディアなどほとんどないので、確実にAだと思われるもの以外をシャットアウトしてると情報は何も入ってこないんじゃないのかと。

半身半疑でもいいから取りこんでおく

で、ここまで書いていて思い出したのが、メディアいじりを得意とする時事芸人プチ鹿島さんの「半身半疑」論だ。
説明が面倒なので本人ブログ引用。鹿島さんは子どものころからの熱狂的なプロレスファンである。

「プロレスは真剣勝負だ、それ以外の考えは受け付けない」という純粋な「信」は、頭が硬直化するだけで余裕がない。かと言って、「プロレスは八百長さ。でもそれを踏まえて楽しむのさ」という、妙に達観した「不信」はパサパサして味気がない気がする。
「半信半疑」がいちばん精神的にもバランスがとれ、遊び心がある立ち位置だと思った。

そしてその見方はプロレスどころか、日常のさまざまなモノの見方・考え方にも有効であると知った。
疑うことなく全て信じたらそれは「オカルト」(最終地点はカルト)に通じてしまうし、信じることを全くしなくなったらそれは「ニヒリズム」(最終地点は価値と潤いの無い世界)に通じてしまう。だから様々な角度からワクワクできる「半信半疑」でいいのだ。
〜人生に必要な知恵はすべてプロレスで学んだ 〜 「半信半疑論」 | プチ鹿島ブログ「俺のバカ」

これは鹿島さんが出ているラジオ「東京POD許可局」などでも毎度のようにとなえている彼の持論なので、くわしく知りたければ聞いてみたらいいと思う(宣伝)。
TBS RADIO TBSラジオ 東京ポッド許可局


台本かどうか気になって話の内容について考えられない、という人はいったん半身半疑でもいいから自分の中に取りこんでから、参考になるところとならないところを切り分けて料理していけばいいんじゃないか。